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2016年12月 9日 (金)

大徳寺

京都に通学していたが、よく遊びよくバイトに励んだが、よく勉強したとは言い難い。当時、御所(確か公開された日に見たような)、祇園(貧乏学生の身でお茶屋に上がったわけではない。前を通っただけのこと)、南禅寺(石川五右衛門の名文句は今の時代もいきておりさらに増殖中)、琵琶湖から銀閣寺傍へ流れる疎水に沿う哲学のみち(歩いても哲学的発想は出てこなかった)、嵐山(風景が素朴だったような気がする)、鞍馬、比叡山などに行った記憶はかすかに残っている。何せ50年以上も前のことだから具体的な記憶は遠く彼方へとんでいる。もっぱら、魔界と俗界の境である新京極に、飲食・飲酒・映画・パチンコなどでしょっちゅうお世話になったことは記憶にある。若い頃は神社仏閣には関心がなかったので「大徳寺」はついては、恥ずかしながら(どこかできいた文句で言えば)ちっとも知らなかった。 

最近「司馬遼太郎著の街道をゆく(34巻大徳寺散歩)」を読んでいて、臨済宗(禅宗)の一派で、臨済宗大徳寺派の大本山、号を龍寶山と言い、1315年(正和4年)大燈国師 宗峰妙超禅師が開創したとある。この場所は、それ以前は、京都の郊外紫野と言われ、古代の皇室、貴族(公家)が野遊びをする場所であったそうである。

この寺で有名なのは、一休和尚と沢庵和尚かな~、当時から戦国時代にかけて、支配する側(天皇、貴族、源氏、足利、織田、豊臣、徳川、豪商など)の庇護を受け禅寺として一大勢力をふるったようである。グーグルマップで見ると、京都市左京区紫野大徳寺町に位置し、広大な敷地に、大徳寺を中核にして塔頭と呼ばれる大小20の寺院が軒を連ね、街の真ん中に広大な一角をなしている。拝観料を頂き内部を見せてくれるのは4カ寺で、後の塔頭は余程の著名人でなければ拝観できないようである。今は京都市街地の中にどっぽりと納まっているが、市街図を見ていると規模の大きさに驚かされるし、吾輩にしても、4年間通ったのに大徳寺を知らずに、周辺にも行ったことがなかったのは残念である(勉学に励んでいて京都の街に関心がなかったと言う弁明は大嘘である)。高貴高齢者になって、便利なネット情報を活用できるようになったし、「無為徒食の日々」であるので、暇にまかせて少しは学習しようかと思っている(これはちょっぴり真実を語っている)。

2015年12月26日 (土)

高血圧症・老いるⅠ

家内受診のアッシーで、久しぶりに「晩成の郷」へ行くのにH先生の元医院の前を通ったところが、建物は撤去され、土砂が山積みにされ広い更地になっていた。整地された土地の前には、マンション?建売住宅?の開発かどうかは知らないがD建設会社の看板が立っていた。あの当時、H先生の医院は3階建で医院兼先生の住まいであったと記憶している。入り口にはインターホーンがあり自宅電話も医院と一緒であったので、患者の緊急時に対応していたし、お陰で往診していただいた。時代とともに様変わりして職住分離、職住近接になったのも、クリニックも同様で(週休2日制祝日休みの公務員化?)、緊急時には救急車を呼んでくださいになった。世の中豊かになる?ことは、個人も命を大切するが、寿命も延び永久に生きると錯覚をしてしまう。健康思考の中で受診者が増え、病名の増加と治療の複雑化でクリニックと言う名の医業分科、専門科になり、患者はあちこちのクリニックを受診せねばならないようになる。相手変われど主変わらずである。受診先のドクターも千差万別、診断で患者はオロオロするばかりである。

今も転院後受診は続いているが、初診の頃のあの時代は良かったと思っている。長い間、高血圧を正常化することに脳がいっていたので、仕事と遊びとともに、他の症状、病名等にほとんど見向きもせず、減量、運動、飲酒、食事、睡眠等に注意を払いながらの生活であった。熟年女性をターゲットに「あれから四十年」で人気のあるタレントではないが、うまい具合に老人になったのがラッキーであった。高血圧以外に心配することなく、「死に方‘格差社会、満足できる死に方を迎えるためには 富家 孝/著」を読むと、年齢的には健康寿命のまま死のゴールをクリアしたことである。あとは死というテープをいつ切っても悔いはない!(本当かどうか自信は?であるが)

現在の血圧であるが、上140ー100/下90ー60と投薬(コニール2mg朝・晩、メインテート0.625mg朝、ワーファリン2.5mg朝)は受けてはいるが、初診当時よりも低いし、過去に言われていた年齢+90、有名な過去の東大教授が高齢者の血圧150~100の基準より正常化している。年齢から見ると下がりすぎではないかいと思っている。

久しぶりの「晩成の郷」の風景 南天と冬景色

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2015年12月20日 (日)

高血圧と不整脈(心房細動)

高血圧症は、50代の頃、近くの医院・院長に往診をして貰ったのがきっかけであった。その頃は、仕事(合理化の手先)は面白くなく、帰宅後よく酒(麦酒)を飲んでおり体重も80㎏近くあった。当時は晩酌としては麦酒中3缶程度飲んでいたと思う。この日に限っては、1缶飲んだら後が飲めなくなった。家内は(珍しいね)と言っていた。テレビを見ていたらふらふらして起き上がれなくなった。起き上がると倒れるのではないかと言う不安がよぎり、家内に近隣の医院に往診依頼の電話を頼んだ。医院の受付を通じて院長に一生懸命頼み込んでくれた。院長は、渋い返事ではあったらしいが来てくれた。診察して院長は「血圧が高いので薬を取りに来るよう」にと言って帰って行った。それを機会に院長は、主治医になった。2週間に1回の受診、血圧測定、6か月に1回の血液検査が定番になった。心電図をとると期外収縮が見つかったので併せて薬をくれたが、当時の私は、薬に対するアレルギーが強く指示に従わずこっぴどく叱れ、「転院してくれ、総合病院へ紹介状書きますよ」と言われて謝罪したことが今でも思い出される(この結果、不摂生もあっただろうが、期外収縮から心房細動となったようである)。先生が往診してくれず、高血圧に気がつかなかったら、もっと早くこの世からおさらばするか半身不随になっていたかも知れない(今は感謝の気持ちで生きている)。この先生の診察であるが、診療台に横になり血圧測定1回、血圧が高い時は深呼吸させてもう1回(今日は高いぞと思うとあまり良い気分ではなかった)、起き上がって1回と2~3回必ず測定し、聴診器を胸と背中にあて、両足のくるぶしを押さえた後に測定数値のコピーをくれた。寡黙な先生で結果について、私が尋ねない以上はこれで診察は終わり院内投薬を受けて帰るだけであった。先生が老いて引退・閉院、息子さん(医者)の所に転居する迄面倒を見て貰った。

この医院の建物と敷地は、N病院の出先クリニックとして再発足したので、その後はM院長に診察を継続して貰うようになった。この時に心電図、24時間ホルター、心臓エコー等検査で不整脈(心房細動)と診断され、ワーファリンの投薬が始まった。この間にM院長のクリニックも閉院する等紆余曲折があった。今は家から近いクリニックに転院しているものの、不整脈(心房細動)の投薬は続いている。同じ病名で8人の先生(代診を含む)から診察と投薬を受けたが、人間いろいろドクターもいろいろ面白いものである最初のH先生の弟は通称ムツゴロウさん(タレント?兼獣医師)であったが、小柄なところは兄弟で似ていたようである。H先生は自己顕示欲もなく、どの患者に対してもごく自然に淡々と診る立派な先生だったと思う。N病院の出先クリニックの代診ドクターは、傾向的には威張る、無責任、形式的な診察、血圧測定もしない等も見られた(病院は今も存続)。

現在受診中のクリニックは総合内科(かかりつけ医)であるが、この院長もH院長と同じく、こちらから訊かない以上はいろいろ言わない寡黙で優しい先生である。医師も経験を積んで患者に安心感を与える先生に成長されるのであろうが、私(蚤の心臓?)には頼りになる先生である。そうそう、今の先生に出会う前に「高いですよ(血圧・心拍数を測定)」と不安にさせ、投薬増量、検査漬にする先生に出くわしたことがあるが、診察を受ける度に血圧が上がることがあったので、振り出しに戻るには(清水の舞台から飛び降りる)勇気がいったが、現在のクリニックに転院した。今も降圧剤(25年)、ワーファリン(8年・月1回のINR検査)の投薬を受けてはいるものの、白衣性の高血圧にもならず、受診時の血圧は、ほぼ130/80前後である。愛読しているブログ「自分スタイルのセカンドライフ」のドクターによれば、長年の大量投薬による副作用で80歳を過ぎると脳梗塞や呆ける人がふえるとも書いてある。生きて呼吸していると不安は尽きぬものである。とは言いながら病院でチューブにつながれたり、施設で童謡などを歌わさられるのは御免こうむりたいな~

今朝もいつものコースを歩く。先日から河畔の先に見える紅葉が気になっていたので、出直しデジカメにおさめた。どうも小さなハゼノキのようである。あまりにも綺麗だったの2,3枚撮る。

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2015年12月 5日 (土)

蕎麦

師走になると慌ただしくなるが、そば打ちクラブと年越しそば打ちを思い出す。5年前にそば打ちクラブ「晩成の郷」を発足させ、同好会を作り賑わいのある場所づくりを想定して、会員を集め、蕎麦の効用を説き、健康自然食品をアピールし更なる飛躍、発展を求めたが、夢はもろくも破れ2013年12月閉館した。結果良ければすべて良しは歴史のならいであり、勝てば官軍であるが、武士の商法ではないが、手打ちそば(混ぜる・捏ねる・延ばす)と言う過酷な肉体労働は、将来そば屋をやる気のある人は別として、高齢者にとっては、腰痛等疾病の悪化につながる以外の何ものでもなかったようである。それなりに運営努力し、「晩成の郷」と言う会報も発刊、ブログも発信した。しかしそば打ちニーズの少なさは如何ともし難く、年越しそばの時期を除いて、そば打ちの趣味と実益を兼ねて来る人は、平均2日か3日に一人か二人程度の予約であり、そのためにクラブに出向き準備をして、珈琲を入れ、そば打ち指導をして、なにがしかの経費を頂く365日の繰り返しは、如何に鈍く鈍感な吾輩でも気づき「もうやめた」「身体が持たない」とものの見事に退却した。

そば打ちクラブを立ち上げた本来の目的は、そば打ちと菜園を手段として、高齢者等の志を一つにする生きがいづくり「支え合い・助け合いの場」を想定し吾輩がスポンサーとなり、それなりの建物と敷地を提供したようなものであったが、そのことを参加した人たちに、理解と周知徹底が出来なかったことである。

最近読みかけ本「神保町(二階世界)巡り、及び其の他、坂崎重盛/著 平凡社」の中で蕎麦の食べ方が出て来るが、蕎麦と酒は、江戸っ子にとっては粋な飲み方と食べ方が決まっているのだな~と思った。勤め人の時代に東京から出向していた上司のAさんがいたが、当時は、土曜日は半日の休みがあり仕事が終わるとIちゃん「蕎麦に行こうと」と誘ってくれた。店に入ると、Aさんは即座に酒を頼み2杯の酒を一気に飲み、終わる頃にざる蕎麦が出て来るとさっさと食べて、「出るよ」と言って吾輩の代金を払ってくれて店を出た(酒の強くない吾輩はそんな粋なことは出来なかったが)。Aさんは江戸の粋な蕎麦の食べ方のDNAを引き継いでいたのだろう。そのAさんも鬼籍に入り20年以上経つが、Aさんと酒と蕎麦のことは強く印象に残っている。

2015年3月 6日 (金)

寄せ書き

1976年、当時の厚生省に派遣された。一般的には、各省に地方自治体の職員が国の仕事を手伝うため、若い職員が派遣されている。研修とは言っても要は下働きで、コピー取りや単純業務が主であった。何故中年の小生が派遣されたかはそれなりの事情があったが、配属された課の事務官よりは10歳程年上で、下働きとしては少し使い勝手が悪かったのではと思っている。日本のキャピタルに来た小生は、見るもの聞くものが新鮮で、魅力的であった。まさに文明開化であった。

飲んで騒いで地方に何度か事務官のふりして(虎の威を借りて)、地方に同行してそれなりに楽しい日本見聞録であったが、あっと云う間に研修が終わりフランチャイズに帰ることになった。局長から研修修了証書と記念品の高級万年筆(いまどきの60万円もする絆のモンブラン万年筆ではなかったことは間違いないが)を頂いたことが思い出として残っている。今は、研修修了証書も万年筆も居所不明(紛失)になった。記念の寄せ書きは、書類等を断捨離中に発見したので、これだけは研修遺跡とし保存している。

寄せ書きを見ると、月日の経つのは早いものであるが、当時の方々を思い出します。印象に残る寄せ書きベストスリー(独断と偏見で選定)は、「照一隅」「星火燎原」「無事是名馬で」です。それぞれ含蓄のある言葉です。「照一隅」は寄せ書きの真ん中に書かれていたが、単細胞の私は、地方で頑張れぐらいの意味にしかとってなかった。深い意味があったことを老いて理解した。この方は課のトップで、子どもの頃は、山梨県の神童と呼ばれていたそうである。舌鋒鋭く、切れ味が凄かったのが記憶の片隅に残っている。生涯現役で、社会福祉法人の専務理事としてご活躍されていたのを数年前テレビで拝見したが、一昨年89歳で亡くなられた。ご冥福をお祈りします。「星火燎原」は、大の巨人ファンで、当時、毎年後楽園球場の年間指定席を購入されていた。所用で行けないので、応援に行ってくれと頼まれ、ナイターを見に行ったことがある。その日は、巨人・阪神戦で、巨人ファンばかり、四面楚歌の観覧席で内心では阪神タイガースを応援し、阪神タイガースの勝利であった。小生は、一宿一飯の恩義で「巨人が負けて残念でした。」と報告(面従腹背)した記憶がある。今まで、平々凡々とあまり無理をせず生きてきたし、中庸をもって本分とすべしがモットーだったので、今があるような気がしてならない。だから「無事是名馬」は好きである。このほかに、「温故知新」と書かれたAさんは、樺太の出身だったが、頭脳明晰、弁が立ち、頭の中で整理してきっちり話されていたことが強く印象に残っている。酒が大変好きで早く亡くなられたが、情にも厚く素晴らしい人だった。公私共にこの方には大変お世話になった。全部で27名の方の寄せ書きをいただいたが、家人には猫に小判である。私が黄泉の国へ旅立つときは、一緒に煙となって天高く舞い上がってほしいと願っている。

今日は啓蟄、「晩成の郷」の菜園もだんだん春めいてきたが、これからボチボチ野菜も成長するでしょう。竹林?も緑が増してくるでしょう。

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2013年5月 3日 (金)

思い出

今日は、そば打ちに5名の会員が来たので、晩成の郷に出かけた。会員がそば打ちしている間にいつもの散歩に出かける。私は50数年前、叔母宅に居候していた。その隣に住んでいた90歳になるNさんに会う。このNさんの主人は42歳亡くなった。その頃、休日に、私は空気銃をもって鳥を追い回していたが、嬉しそうについて回り、撃ち落とした野鳥を見つけ出すのが得意であった。鳥を食べない私はあげていたが、喜んで酒の肴にしていたようである。大変好人物でいつもにこにこしていた。ところが家族に対しては酒に酔うと包丁を持って追い回すなど酒乱癖があったようである。亡くなった時も酒に酔って藪の中に転がり落ちて、顔面が傷だらけになったそうで、近所の医院に行ったところ、診察した医者が大雑把で、破傷風に気が付かず毒が回って早々に亡くなった。この医者も自分の盲腸の見立てが出来ず若い時に亡くなっている。当時は、人間らしい生きかたをする人達の時代だったのかも知れない。Nさんと立ち話をしたが、元気そうで、耳も内臓も健康とのこと。80歳迄ホテルで働いていたが、転んで足を骨折してから足腰が悪くなって仕事を辞めたと、悔しそうであった。私の耳は少し難聴ぎみで、Nさんの話が聞き取りにくいが、Nさんは私の言葉をしっかり聞き取っている少し悔しい気持ちになる。それぞれ長く生きていると、身体の故障箇所が違ってくるのだろう。

吉祥寺の藤まつりも終わり、散歩を兼ねて付近に行ってみた。閑散としていたが、まだ近郊から車で藤見に来ていた。駐車場500円紙の貼り札も目についたが、階段を上って藤を見て下りてきて60分もかからない。仏閣の拝観は高くつくものである。

今日の晩成の郷をデジカメに撮る。(山の神・菜園の玉葱)

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